生 江 地 区 の 概 要       
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生江地区の成立や沿革について文献で確かめることはできません。しかし、当地区のお寺である浄土真宗指月山常宣寺が、1397(応永4)年に開基されていることからその当時にいくらかの集落を形成していたと思われます。また、時代は少し下りますが古地図(摂津国古写図 1704(元禄17)年頃)に大川に沿って西から今市、千林、森小路,中村、なぎ、赤川、毛馬の地名と共になぎと赤川の間に「なぎの皮多」との記載があり、当時すでに被差別身分としての「皮多」身分に置かれいていたことを物語っています。   
  当時「皮多」身分に固有の役・職能がどのようなものであったかは資料もなく良くわかっていませんが、皮革業や大川の舟運などに従事していたのではないかと推察されています。また、1837(天保8)年の大塩平八郎の乱と生江地区の人たちの関わりなども興味深い歴史のひとこまです。  
  明治以降も生江は「荒生(なぎ)」と呼ばれていましたが、1924(大正14)年に大阪市に編入され東成区生江町に、1932(昭和7)年東成区から旭区に分区、1971(昭和46)年に生江町から生江になり今日に至っています。
 明治以降の生江の様子については1922(大正11)年に編集された『東成郡誌』に垣間見ることができます。明治以降の城北村は農業が主要な産業でしたが、生江地区では農業に従事する人は少なく「僅かに履物の製作修繕をするもの少数あるのみなりしが‥中略‥近来履物用材、棕櫚表(しゅろおもて)、膠(にかわ)製造、ブラシ製造等の諸工業著しく増加せり、然れ共之等は、習慣上概ね一部落に限れり」との記載があります。

 淀川の大改修
 
淀川は現在の守口付近から大きく蛇行し、そのためたびたび大洪水に見舞われました。このため1897(明治30)年から守口〜赤川間の旧右岸堤防を左岸として川を付け替える大規模な改修工事が行われ旧堤防に沿った集落であった生江地区の現在のかたちが固まりました。また、改修工事に従事した人々がそのまま住み着いて大きな村になったと伝えられています。旧河川の一部が現在の城北公園の池として残っています。
近 隣 の 風 景
千人つか しょうぶ園 城北公園の池と菅原・城北大橋